由緒
和田八幡宮縁起書
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日吉山王社 由緒
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【名称】越前国足羽南郡 總社和田八幡宮
【御祭神】西御前:第14代 仲哀天皇・足仲彦命 / 中御前:第15代 応神天皇・誉田別命 / 東御前:神功皇后・息長帯比売命
【例祭日】春季例祭:4月第3土曜日・日曜日 / 秋季例大祭:9月第2土曜日・日曜日
【創建】天徳3年(平安時代中期、959年)
【御社格】旧郷社
和田八幡宮の創建
今から約1060年前(平安時代中期、959年)、当時この地方は、たびたび洪水や疫病に襲われていました。当時、越前で守護職(現在の県知事の様なもの)をしていた源満仲は、霊夢により東北に向け矢を放ち、矢の落ちた先である越前(現福井市和田)にお宮を創建しました。満仲八幡御宮と石に刻み、祈念して護摩焚きをしたところ、洪水や疫病が鎮まったといわれています。そのお宮というのが和田八幡宮です。
その後、神仏混淆の京都、石清水八幡宮に準じお宮が、和田の庄に占い社殿が造営され、和田八幡宮は「和田七郷」の総社として、当時はその規模が雄大であったといいます。(東西約650m、南北約1400m)院坊は、次の16ヶ所に置かれました。円持院(本坊で養泉寺とも呼ばれた)、松林院、杉本坊、三明坊、嘉例寺、東霊寺、守住院、光明院、円融院、本光院、長久院、己心院、来迎院、慧照院、無常院浄徳寺
焼きうちにあい全焼、そして再建へ
創建から数百年後、朝倉敏景は宮祠を修理し、和田村一千貫文を供えました。ところが、天正元年(1573年)の一揆の動乱により、宮祠、樹木、社家、僧坊等すべて焼き討ちされてしまいました。三明坊の尊久は、密かに御神体を背負って東郷の南山に逃れ、そこで20年余りを過ごしました。その後、旧地に帰って祠を営み、御神体を祀ったいわれています。慶長6年(1601年)、松平秀康により再建が命ぜられました。元和9年(1623年)1月15日、三河守参議、松平忠直の命令により、本殿、拝殿、廊下、華表瑞籬が完成し、その後180年間、和田の里に壮麗な神社を誇りました。
和田八幡宮縁起書
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和田八幡宮創建にまつわる伝説「三ツ矢伝説」
今より約1060年前の959年(平安時代中期)、源満仲(最初に天皇陛下より源氏の姓を賜る清和源氏)が摂津(現大阪)住吉大社より神託を受け、矢を放ち、落ちた先の北摂津(現兵庫県川西市)にお城を築き、矢を見つけた御家人に三ツ矢の姓と家紋を与えたという伝説があります。
次に、満仲が守護職をしていた越前に於いて、洪水、疫病が度々起こり、困り果てた満仲が霊夢により東北に向け矢を放ったところ、その矢は越前(現福井市和田)に落ちました。満仲は矢の落ちた場所にお宮を創建し、そのお宮というのが、現在の和田八幡宮です。
清和源氏の祖
天皇陛下から最初に源氏の姓を賜った源満仲公。清和源氏の祖として、後に鎌倉幕府を開く源頼朝公や江戸幕府を開く徳川家康公の祖先でもあります。
満仲公像の建立
当宮の創建に関わる満仲公とのご縁で境内に石像を建立させて頂きました。